ぐうたらのひとしずく

保育って何だろう

下田貴史
社会福祉法人あゆみの会
鶴ケ岡すまいる保育園 園長
【村民大楽2018】汐見稔幸の人間学4回シリーズ
投稿日:2019年5月17日

保育の現場では「人生、人間とは何か」という問いを絶えず突き付けられます。問いに対する考えを持たずに保育を行うと場当たり的なものになるでしょうし、逆に自分の考えに固執しすぎると、柔軟性を欠いたり恣意的な保育に陥ることにもなります。

しかし、人生・人間とは何かという命題は人にとって根源的な問いの一つで、万人に当てはまる明確な答えがあるわけではありません。そのため多くの哲学者や思想家、科学者や研究者のみならず、この世に生まれたすべての人がその問に向き合っているのだと思います。

保育とは突き詰めれば、このように明確な答えを持たぬまま、当事者である子どもたちとともに手探りで歩む営みなのかも分かりません。
一方、昨今の研究等を通じ「してはいけない、しないほうが良いこと」については答えらしきものが、徐々に明らかにされてきたように感じます。

してはいけないことの筆頭は虐待です。虐待とは何か、英語では虐待をABUSEといいますが「間違った使い方」という意味になります。

大人は子どもに比べれば多くの面で知識、経験があり力や実行力もあるため、よほど特殊な場合を除いて、圧倒的に優位な立場にいます。その優越的な立場や力を誤った形で行使してしまうと虐待が起きます。大人同士でも虐待はあります。パワハラやセクハラ等も虐待の一つとでしょう。パワハラやセクハラは仕掛けた側の意図がどうであれ、やられた側が嫌だなと感じればハラスメントになります。
子どもに対しても、大人の意図、例えば躾という目的を持っていたとしても、子どもが苦痛に感じるのであれば虐待になる可能性もあります。

では、人が嫌だと感じるのはどういう場合でしょうか。私は日本の刑を思い浮かべます。刑務所が辛い理由は自由がないことです。行動を指図され、時間や空間、移動を制限され絶えず監視されることは、人間にとって苦痛なことです。子どもに対しても自由を束縛していないか、自主性を尊重しているか、無理やりさせていないか、自由を制約する必要がある場合でも、本当にそれが最善の利益につながっているのか等、私たち大人は絶えず自省しなければいけないと思います。

「性善説」と「性悪説」について

人は生まれながらにして善い心を持っていると考える性善説、人は生まれただけでは善い心は宿っておらず、生まれたままでは悪い状態であり、教育をすることで良い心が宿っていくと考える性悪説、私は性善説の立場か性悪説の立場の見方の違いによって保育も変わってくるとおもいます。性善説側に立つ保育者は概して子どもを信じて見守ることが多くなり、性悪説側に立つ保育者は指示や命令が多くなるように思います。私はどちらか一方の考えだけでは、バランスを欠くと考えます。例えば、鉄道の運行やロケットの打上等、緻密なスケジュールと高い精度を求められるプロジェクトは性善説だけでは成り立たないと思いますし、法律や契約、マニュアル等もどちらかと言えば性悪説的な立場から要請されている様にも思います。そう考えると、性善説・性悪説と二分するのではなく程度の差はあれ、どちらの要素も必要なのだろうと思うのです。性善説と言うお刺身に性悪説と言うわさびを付ける感じでしょうか。わさびだけではとても食べられませんが、わさびがあることで刺身が引き立つことも確かです。

「子どもを信じるということ」

私は、保育は性善説をベースに考えていくべきではないかと考えます。人は誰もが一人一人、良心や個性・素質の種を生まれながらに持っており温かい環境があればその種は育っていく、と信じることが出来ないならば、保育とは何と空しい営みなのかとも思います。
小林秀雄先生の「考えるヒント」に「文化について」という随筆があります。文化とは本来「武力を用いずに国を平定する」という意味でしたが、明治時代にカルチャーという概念を輸入した際、訳語に文化という言葉を当てました。本来のカルチャーには「耕す・育てる」という意味があります。

カルチャーとはそのものが本来持っている素質を引き出すことです。リンゴのふじ・紅玉等の品種は、本来リンゴが持っていた素質を引き出した結果であり、それらの品種改良はカルチャーです。一方、リンゴは本来、家になる材木になる為に生まれてきた訳ではありません。リンゴを切り倒し住宅を作ることはカルチャーにはなりません。

人間も一人一人異なる様々な可能性を持って生まれてきます。誰がどんな種を持っているのか、それは分かりませんが、少なくとも一人一人の素質が開花出来るよう環境を整え、耕していくことが教育の在り方ではないかと思います。種の存在を信じることなく、個性を無視し、大人や社会が求める子どもの理想像を押し付け型にはめ、その達成度合いを比較し優劣をつけるのは、リンゴの木を切り倒し、家を建てるようなものです。

個性についていえば種の存続という面から見ても大きな意義を持っています。ゾウリムシのような単細胞生物ですら、真っすぐに進むもの、くるくる回るもの、後ろに下がるものなど、個体によって動きが異なります。この理由はもし環境が変化した時、同じ動きしか出来ない種は絶滅する危険性があるからだそうです。人間も乱世の雄もいれば平時に力を発揮するタイプもいます。この意味でも、保育者はある尺度にあわせて画一的な見方をするのではなく、一人ひとりの個性や素質、素晴らしい種の存在を信じる事が大切だと思います。

「子どもに向き合う心構えについて」

保育を考える上で想いだすエピソードがあります。将棋の故米長邦雄永世棋聖の小学生の頃の内弟子時代の話です。師匠から将棋を教えてあげると言われた時、米長少年は「必要ありません」と答えています。師匠から「なぜ?」と問われた時に「師匠から将棋を教わってそれを全て理解できたとしても所詮は師匠どまりではないですか」と答えたという逸話を残しています。

子どもたちは様々な可能性を持っており、保育者より豊かな才能があることも多々あるでしょう。将来、メジャーリーグで活躍をしたり、素晴らしい芸術作品を生み出したり、宇宙の秘密を解き明かす方程式を見つけるような凄い種もあるでしょう。せっかく備わっている種を環境が悪いがゆえに発芽されることもなくそのまま消えていくことは人類にとっても大きな損失です。保育者の心構えとして大切なことは「常に謙虚であれ」ということだと思います。

「大切なことは目には見えない」

アフリカの支援で日本の援助は現地の方からとても高い評価を受けてると聞いたことがあります。例えば、水飢饉の際、他の国の援助は水のタンクを持ってきてくれるそうです。

それはありがたいことですが、タンクが空になれば、再び次のタンクを待たねばなりません。一方日本の援助は、現地の人に井戸の掘り方を教えるそうです。井戸の掘り方、自分たちで問題を解決する方法を知っていれば、タンクを待つ必要もありません。

私はこの話を聞いたとき、保育にも通じるところが多いと思いました。文字や数、礼儀作法等の知識を与えるのは、水のタンクを置いてくるようなもので根本的な解決能力にはつながっていないように思います。今回の保育指針で育てたい資質能力として非認知的能力の育成が保育目標として明確に打ち出されたことは、この点から見ても大変喜ばしいものだと思います。

物を与えるのではなく、物を作る技術を継承すること。星の王子さまではありませんが、大切なことは目には見えない、本当にそう感じます。

「ヒト」にしか出来ないこと

「サピエンス全史」にてユヴァル・ノア・ハラリ教授は、ヒトが他の種族や生物の頂点に立った理由は「ヒトの脳に認知革命」が起き、実際に目に見えるものだけでなく、目に見える世界を貫いている法則や目に見えない抽象度の高い概念や世界を考えそれを信じることが出来る能力を身に付けたためだと言います。その能力を使いヒトは科学や経済、宗教や国家等、様々な社会を創ってきました。これは地球上の他の生物には類を見ないものです。ところが、ヒトが創り出した技術がヒトの認知能力を上回るパフォーマンスを示すようになり、ヒトが世界の頂点に立ってきた根拠、独占してきた認知能力の絶対優位が崩れ、ヒトはAIに追い抜かれ支配されるのではないかという危機感や不安感が世界を覆い始めています。

私はヒトにしか出来ないこと(出来なかったこと)の一つはハラリ教授の言う認知能力であることは間違いないと思います。けれどもう一つ、AIには決してできないヒトにしが出来ないことがあります。それは死ぬことです。AIには死という概念がありません。そっくり同じものが複製され壊れても再生産できます。けれどヒトはそういうわけにはいきません。医学技術の進歩により寿命は延び非死の可能性すら取りざたされてきましたが、今ある個体としての死は避けようがありません。

死は必ずやってきます。戦争や天災、地球環境の変化で生物が生息できない世界になるかもわかりません。そもそも数十億年後には太陽に飲み込まれてしまいます。そう考えると、死に抗いながらも死を受け入れざるを得ない、つまり、ヒトは死という存在から逃れることは出来ません。そのため、死と何らかの形で折り合いをつける必要が出てきます。

有史以来、多くの哲学者や思想家、科学者や芸術家がこの問いに向き合ってきました。ソフィの世界では人の根源的な問い、全ての哲学を貫く問いとして「私は誰?」「世界はどこから来たの?」という二つを投げかけています。葉っぱのフレディは、散りゆく刹那に自らの生命や生命全体の姿を悟ります。

1が無ければ0が無いように、白だけの世界には白はありません。生も同様で死が無ければ生はありません。プラトンの言う様に、生とは死の炎に映し出された影を洞窟の中で見ているようなものなのかもわかりません。

AIの思考回路や抽象性を導くプロセスは分かりませんが、少なくとも死の影におびえながら、あるいは意識しながら生を営んでいるヒトのメンタリティはAIには実感できないのではないかと思うのです。

ヒトの目的は、結局全ては死を克服するためのもののようにも思います。社会を創り食物やエネルギーを備蓄し医学や技術を発展させる、これらは全て死を遠ざけるための営みです。AIには食物を増産させる方法を導くことができるとは思いますが、なぜ食料を増産させるのかというヒトの心、動機については理解できないのではないでしょうか。

保育も死と折り合いをつける営みの一つのように感じます。駅伝のタスキのように次世代に思いや社会、技術やタスキをつなぎ、種としての生存を図ることで、個体としての死を乗り越える試みのようです。

私たちが次の世代に受け渡したいタスキとはなんでしょうか。私たちが死に臨み、この世に残したいものとは何でしょうか。想いや願いかもわかりません。知恵や財産かもしれません。「私がここにいた」という何らかの痕跡や「こうした方が君たちは幸せになれる」という想いでしょうか。一人ひとりの才能を信じることでしょうか。ボブ・ディランではありませんが「答えは風の中」私たち一人ひとりの心の中にあります。

「考える」とは

最後に今回「保育ってなんだろう」「人間ってなんだろう」「生きる・育つってなんだろう」と言う問いかけについて、考えてきました。
考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ(小林秀雄著「考えるという事」)。

考えるとは、抽象的な思考をこねくり回すことなく、具象に徹底的に向き合い格闘することだと、かの碩学は我々を戒めています。

保育について理想の抽象概念があり、目の前の子ども達にそれを当てはめているだけでは考えていることにはならないのだと思います。目の前の子どもたちの息遣い、笑い、涙、想いを徹底的に感じ考えること、保育とは子どもと共に大理石から何かを削り出す共同作業のようなものなのかも分かりません。

美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない(小林秀雄著「当麻」)。

ありのままの子どもを受け入れ子どもたちとともに考えていきたいと思います。

最後に汐見先生に揮毫いただいた言葉で本稿を締めくくらせていただきたいとおもいます。

保育とは、子どもに驚き、子どもに学び、子どもに感謝する、人間らしい営みです。