ぐうたらのひとしずく

人間とは何か

太田美由紀
編集者・ライター
【村民大楽2018】汐見稔幸の人間学4回シリーズ
投稿日:2019年5月1日

高校生の頃、物理の授業で「エネルギー保存の法則」について聞いたときのことをよく覚えている。「エネルギー保存の法則」とは、位置エネルギーと運動エネルギーの和は一定であるという物理学の基本的な法則だ。位置エネルギーが大きくなれば運動エネルギーは小さくなり、運動エネルギーが大きくなれば位置エネルギーは小さくなる。物理の先生は振り子を揺らしながらぼそぼそとその説明をしていた。その先生は常に声が小さく、生徒に教えたいとか伝えたいとかいう情熱もほとんど感じられないので、全くもって面白い授業とは言えなかったが、私は窓際の一番後ろの席から、クラスメイトの頭の向こうに見え隠れしながら一定のリズムで揺れる振り子をぼんやりと見つめていた。そのとき、私にふとこんな考えが浮かんだ。

「人間が死んだら、その人のエネルギーは一体どこに行くのだろうか」

私の父は私が小学校3年生の頃に頭の手術をしていた。当時、30代半ばだったはずだ。私は詳しいことを知らされないまま病院に見舞いに連れて行かれた。冷たく薄暗い廊下を抜けて病室のドアを開けると頭を丸刈りにした父が笑っていた。私は驚いてさっと祖母の後ろに隠れたが、娘が自分を見て驚いたことを父が知るとがっかりするだろうと思い直し、何も気にしないようなふりをして父と話をした。父はその後、いつの間にか元気になって普通に仕事をし、趣味も楽しみながら10年近くを過ごしていたが、ちょうどその物理の授業の数日前に、「あの時の入院は脳腫瘍の手術だった」と母に知らされたのである。父方も母方も祖父母はすこぶる元気で長生きであり、笑顔のあふれる家だった。それまで死は私にとってあまりにも縁遠いものだったが、父は私がいつものように学校に通い、友達と笑い、面白い形の石を拾い、アマガエルを捕まえ、手塚治虫の漫画を読んでいる間に生死を彷徨っていたということになる。さらに、腫瘍を取りきっていないので再発の可能性もまだあるということだった。時間の流れは昨日と同じはずなのに、死は突然、私のすぐ隣にやってきた。そのとき、世界の見え方が明らかに変わった。

人間は生きている間、何かしら体を動かしている。私にとっては、体だけでなく、感情が動くことや、何かを考えることもかなり多くのエネルギーを有することだという感覚があった。これらが消えて無くなったとき、そのエネルギーはどこに行くのだろうか。私という人間の体は燃やされて熱になるか、山奥で朽ち果てて土になるのか。そして、私という魂のエネルギーもまたこの宇宙のどこかで何かのエネルギーに変わって存在し続けるのだろうか。そう考えている今も、どこかで何かのエネルギーが無くなって、新しいエネルギーに変換されているのかもしれないーー。

さらに、高校の授業では、細胞や原子の世界を学び、宇宙を学んだ。学んだといっても高校で学ぶ程度のほんの基礎的な事柄だ。しかしそのことで、私と私を包む世界との境界はさらに薄らいでいった。宇宙の中に銀河系があり、太陽系があり、地球があり、日本があり、私がいる。その私の体の中には筋肉があり、骨があり、内臓があり、細胞があり、細胞の中にまた宇宙があるーー。まるでマトリョーシカのようだと思った。全く異なるようでも、そのコアの部分は同じようなシステムが永遠に続いているかのように感じたのである。

「私」というものは果たしてどのマトリョーシカなのか。一番外側が私なのか、蓋をどんどん開けて、最後に出てくる一番小さなものが私なのか、最後とは一体どこなのか。

こうして振り返ると、私はどうもその頃から、人間の心の不思議さや人間が生きていることの不思議さに興味を持ちはじめていたらしい。さらに、一つの専門分野に集中して突き詰めて学ぶのではなく、幾つもの分野をつまみ食いしながらその共通点を探してしまうような癖があったのだと思う。

父は私が20歳の時に他界した。脳腫瘍が再発して転移し、見つかったときには既に手遅れだった。そのとき父は47歳だった。今の私と同じ年齢である。

私は大学を出て編集や執筆をする仕事に就いた。いろいろな人に私の知らない話を聞いてみたかった。私の知らない世界を知りたかった。若い頃はアイドルや俳優、ミュージシャン、お笑い芸人、エンターテイメントの裏方を支える人たち、著名人や有名人の取材が多かった。自分が初めて母となって1年はママ友もおらず、近所に知り合いもいなかった。完全なワンオペで、孤独だった。一時預かりに恐る恐る子どもを預け、取材に数時間出かけては走って帰った。仕事をしながらの子育ては苦労の連続だったが、いのちを育てる緊張感から解放され、外の世界に触れることのできる数時間も、かけがえのないものだった。いわゆるよい子育てができていたとは思えない。締め切り前にはラックに子どもをのせ、足で揺らしながら原稿を書いた。夜泣きがひどいときには冬でも親子で着込んでベビーカーで近所を何周もし、ようやく寝付いたところで、目を覚まさないようにとそっとストーブを持ってきてベビーカーを見ながら玄関で仕事をした。イヤイヤで同じものしか食べない時期は、納豆ご飯で毎日をやり過ごした。子どもが小さいうちは目の前のことしか見えなかった。何も考えずにただ目の前だけを見て、なんとかこなすことこそが生き抜くことだった。

そのうちに、子育て中の母親、子育てを支える現場にも取材に出るようになった。子育てに関わる雑誌や本の編集、テレビ番組の構成に携わるうち、保育や教育について深く知ることになった。子どもたちの持つ可能性やいのちの力に何度も驚かされた。人間とはこんなに面白い生き物だったのかと心から思った。その面白さを感じることができずにわが子がある程度まで大きくなってしまったことをもったいないと悔いた。この素晴らしさを子育てをしている人たちに届けることができたら、どんなにいいだろうと思った。自分が大変だったことを他のママたちには経験してほしくなかった。誰もが余裕を持って楽しみながら子育てができるようにと願って仕事をしてきた。仕事は私にできるこの社会へのほんの小さな働きかけだった。

一方で、子育てや保育には美しい理想があるが、現実はそうはいかないという思いをいつも抱えていた。その疑問をぶつけ、記事を作ろうと心がけた。しかし、読者が求めるものは、明確な答えだった。

「こんなときどうすればいいのでしょうか」「何歳で何ができるようになればいいですか」「正解を知りたいのです」「他の子に遅れをとらないようにするにはどうすればいいですか」

ある時期、私は嫌気がさしていた。「子育てに答えを出すような育児雑誌があるからママたちが苦しくなるのではないですか」と、取材対象の先生に相談したことがある。言語聴覚士の中川信子先生だった。取材に来ているのにそんなことを尋ねるライターに、中川先生は嫌な顔一つせず、「これ面白いわよ」とさまざまな本を勧めてくれた。療育の世界やいのちの不思議について、何気なく、少しずつ教えてくださった。

私は子育てから少し手が離れると、媒体や取材対象の幅を広げた。難病の子どもを育てる家族、障害を持つ人、被災地の子どもたち、精神疾患の患者、依存症の当事者、ホームレスだった人、認知症の高齢者を支える家族、LGBT、虐待を受けた人、虐待をしてしまった人、それぞれのサポートをする医療・福祉関係者。ときにはロボットやプログラミングの最先端の研究をする学者、宗教家であるダライ・ラマ13世なども取材した。

行き詰まりながらも子育てや保育についても引き続き関わり続けた。幅広い人たちに取材をする中で、人間の根源的な問題は全て繋がっていると感じるようになっていた。社会生活を支えるシステムや研究には人間の抱える問題を解決しようとする試みがあり、マイノリティ、つまり社会的弱者と呼ばれる人たちの生き様には、人間のいのちの働きや心の動きがより鮮明に浮かび上がってくるのである。

そして、子育ての問題に再び立ち返ったとき、新しい視点が開かれた。

私たちは、競争社会で生き抜くように育てられ、教育されてきた。人間が作った社会に美しく馴染むように育てられ、馴染まない人間は切り落とされてきた。切り落とされてしまうから、切り落とされないように頑張らねければならない。それが人としてのあるべき姿だとされていた。特に、特に教育の現場では、そう教えられてきたように思う。先生の言うことに従い、少しでも早く正解にたどり着くことを求められ、成績を順位付けされて大人になったかつての子どもたちが、いのちの不思議さに触れる機会を持たないまま親になれば、前出の質問が出るのは当然のことである。

「こんなときどうすればいいのでしょうか」「何歳で何ができるようになればいいですか」「正解を知りたいのです」「他の子に遅れをとらないようにするにはどうすればいいですか」

こんな質問をする子は、真面目ないい子で努力家であり、大人からすれば扱いやすい子どもだろう。そのように求められ、それに応えてきたかつての素直な子どもたちなのである。そのまま大人になり親になり、子育てをすれば、これが自然な問いなのである。

こんな質問をする大人は、何も疑問を感じていないのかというと、それもまた違うと思う。一人一人の中にはいのちの働きがある。正解を求めて努力しても、現実はその通りには動かない。正解にたどり着かない。そこで辛さを感じ、もやもやする気持ちになるのはいのちの働きだ。いのちは懸命に私たちにシグナルを出している。しかし、日々の仕事や暮らしに追われ、そのシグナルに気づかず、気づいても見ないふりをしているとその辛さはさらに増していく。それでも、「社会から切り落とされないように」「みんなと同じように」という願いは、「同じでなければ生きづらい」世の中があるからだ。気を抜けば振り落とされてしまうと脅され、刷り込まれ、危機感を感じているからだ。

では、なぜそのようなことを求める社会になったのか。なぜそのような教育が必要だったのか。それを知るにはぼんやりと考えていてもわからない。文句を言っても何も変わらない。その背景を学び、行動することが必要だろう。

私たちの社会のシステムがどのように構成されているのか。なぜそのようになってきたのか。そのシステムを変えるためのヒントはどこにあるのか。

その学びが、「ぐうたら村」という場にあると思う。

例えば、人間学講座では、人間というものやいのちのはたらきについて、正しいか間違っているかという二元論ではなく、あらゆる角度から見る多様な視点の重要性に気づかされる。歴史から見る社会、教育の変遷、自然から学び、感じる時間、いのちのシステムなどを多角的に学ぶことができる。その軸になる部分を串刺しにして、ポイントを拾い上げるという、通常ではとてもできそうにないことを汐見先生やゴリが抑えてくださる。

そしてさらに、参加した一人一人が個人の価値観と体験を持ち寄り、対話することで、心が自然に動き、実際に自らの考えを進めることができる。

それはまるで、ギリシア時代のアテネの広場のようだ。「なぜ?」「どうして?」とさまざまな角度から問題の根っこについて対話する場のようである。汐見先生は、まるでソクラテスのように、今ならば、まるでチコちゃんのように、「君はどう思うの?」「それはどうして?」「じゃあこんなときはどうなの?」と問い続ける。

そんな人間学講座の場で、私はまたマトリョーシカのことを思っていた。汐見先生の問いかけによって、そこに参加した人たちは、みな主体的に考え対話し、学びを深めていく。汐見先生の言葉は、保育の現場で保育士のみなさんが子どもたちにかける言葉であり、ママたちにかける言葉ではないか。そう問いかけられた子どもたちやママたちは、自ら考え、対話し、動き出すはずだ。文部科学省が提示する「主体的・対話的で深い学び」は、何も学童期の子どもたちだけに向けられたものではない。人間のいのちに組み込まれた、よりよく生きるために必要な一つのシステムなのかもしれないとさえ思えたのである。

さて、「人間とは何か?」という問いへの答えはどこにあるのか。

「正しい子育てとは?」「正しい保育とは?」という問いへの答えはどこにあるのか。

どこかに赤本があるわけでもない。ゲームのように攻略本があるわけでもない。答えは私たちが心と体をフルに使って主体的に学び、さまざまな価値観を持つ人たちと対話し、自らに問い続け、自分なりにしっかりと掴んでいかなければならないのだと改めて強く感じている。