ぐうたらのひとしずく

死にたいと思うことは悪なのか

藤野 和子
弘前大谷幼稚園 園長
【村民大学2019】汐見稔幸の人間学
投稿日:2020年9月12日

未来を生きるための理由なんて、とっても些細なことでいい。

まずはコーヒーを入れてみようとか、とりあえず明日星を見てからとか…。

生きていたくないようなことなんてきっとみんなある。

だけど、いのちはわたしの中にあるけど、わたしのいのちだけど、

いのちはわたしのものではない。

私の中のいのちはいつだって生きることしか考えていなくて、いつも生きよう生きようとしている。自分の思いとは反対に、生きることしか考えない。

 

死にたいとか、死ぬとか、簡単にそんなこと言うなって言うけど、簡単に言っているわけではない。どんな人も、死にたくて生まれたひとはいないはずだから…。

死ぬことは悪いことではなく、生まれたからには決まっている事。ただいつ自分が死ぬのかは誰にもわからない。その日をわざわざ自ら早めたり決めたりしてしまうことはしてはいけないのだろう。だけど、未来が闇に包まれ絶望しか感じなければ、未来を生きる動機がなくなる。

必要のない自分の存在と無力と無能さに絶望しか感じない時、今の事実や事態から逃げることに意識が集中し、自分の存在の価値を見失い、いのちの願いとは反対に、理性で自分のいのちを消してしまう事しか考えられなくなる。

それは、いのちを軽視しているわけでもないのだけど、それでも生きていかなければならない理由は何?

本当なら生きていたいのが、わたしのいのちの声。だけど幸せを感じながら生きたいというわたしの都合がそこに加わった時、生きることしか考えないわたしのいのちの声が聞こえなくなる…。本当は生きていたい。だから、人に相談したり、こんな風に書いたりしているのだと思う。だからそんな風に思うことがいけないんだとわたしは私を責めることもある。

 

「死にたいあなたが今日も生きたことは、同じように死にたいと思っている人の希望になっている」

 

死にたいと思う事を責める中で、死にたい私を責めず、私にそんな言葉を私にくれた人のその言葉がいまのわたしが死ねずに生きていることへの私への言い訳。

だれも喜ばせることのできないいのち。だれにも望まれずただ生きているいのち。

そんな自分自身のいのちの存在。

生きるということにはどんな意味があるのだろう?

そして、そもそも、生まれるという事に、意味があるのだろうか?

人は、自分がうまれたことに意味を持ちたくて、いろいろ考えるけど、意味なんてなくても、いのちの重さに変りはないはずなのに。

答えを出すことが正しさなのか?

 

そもそも答えなんかないものしかこの世には存在しない。すべては現象でしかない。関係性の中で偶然起こった現象。

答えや正解なんて求めなくても、そんなことがわからなくても、その中でただ生きる。目の前に起こる物事や現象から目を背けないでただ生きる。

もしかしたら、そんなふうに生きることができたら、もう少し笑っていれるのかな?

死にたいと思いながら、今、生きていることを笑えるようになるには、他者の存在なしには気づくことさえできない。

死にたい私が、もらったコーヒー豆をひくためのコーヒーミルが届く明日を待ちながら、明日を生きることを考えている。

生きるという事は、そんな小さな積み重ねでしかなくて、死にたいのに死を先延ばしにしているだけかもしれないけど、それでも、わたしのいのちはそうやって、今、私の中で生きている。

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