ぐうたらのひとしずく

はじめての人間学

宮﨑信子
玉川大学 教師教育サポートルーム客員教授
道灌山保育福祉専門学校 専任講師
【村民大楽2018】汐見稔幸の人間学4回シリーズ
投稿日:2019年5月3日

ゴリは汐見村長を『知の巨人』と呼ぶ。その『知の巨人』のセミナーは、「そもそも人間って何だろう?」という問いかけから始まった。私は、「めんどくさい」と即答だった。

動物であれば、「何とか食べ物を手に入れよう」「生き続けるために敵から身を守ろう」と、思考のほとんどは命をつなぐことだけ。「もっとポジティブに生きるためにはどうしたらいいだろうか」などと、実態のないことのためにもがいたりはしないだろう。

人間である私は、心の支えであった人を亡くした時に固まった。哀しいとか寂しいとかいう感覚以前に、身体が固まり、心も固まり、脳みそも固まった。責任とやりがいをもって関わっていた保育者という仕事は、そのどちらも感じることができなくなり、あっさりと辞めた。辞めた途端にそれまで当たり前にしていたことができなくなった。人に会うことも、メールを開くことも面倒だった。食べることも眠ることも億劫であり、世の中すべてのことに興味を失った。「生きる」とも「死」とも無関係に、ただただ時間の流れの中に身をおいていた。動物だったら、どんな状況にあっても固まったり留まったりなどしている暇などなく、「生きる」ためだけに精一杯自分の力を注いでいくのではないだろうか。人間は、単に気のもち方の些細なトラブルで、気力を奪われ、未来が見えなくなり、希望のささやきも聴こえなくなってしまう。だからといって固まったままの状態でいることを良しとはせず、「このままではダメなのでは…」という思いが生まれてくる。そこからもがき始めるのだ。人間の、「より良くあるためにはどうしたら…」という思い、そのもがきが、芸術や哲学、宗教などを生み出したのではないか。動物は全エネルギーを使って命をつなぎ、種を守る。そのことで進化を続けている。しかし、動物の進化の過程で、芸術とか、哲学とか、宗教とかは生まれてはいない。では、「より良く」とはどういうことだろう。私の「より良く」と、あなたの「より良く」は、決して同じものではないだろう。人間とは、なんと「めんどくさい」ものなのか。

『知の巨人』は答えをなかなか出してくれない。もともと答えがあるのかどうかも分からない。なので考えるしかない。もやもやしながらもふと気づいた。私は「人間である自分」はどう生きているのかと、「自分」のことばかりに躍起になっていた。「人間」を考えるには、「自分」だけではなく、他者も含めてどうなのかと考えるべきではないか。いやいや、他者どころではなく、「人類」「生き物」「進化」「歴史」…という中にいる「人間」を考えてみるべきである。そうした大きな枠組みの中で思考することは私にとって、とても新鮮なことである。まずは「自分」をちょっと横に置いてから、思考を続けてみよう。

このセミナーには、ゴリというコーディネーターがいてくれて、毎回、思考の手がかりとなるべく10個の文献を紹介してくれた。難解そうなものばかりで、これらが書店や図書館に平置きされていても、今までの私なら決してページを開くことはなかっただろう。そんな私のような存在をゴリは予想していたのか、10個の中には漫画もあり、DVDも含まれている。それですら難解であることには変わりないが、ひと休み程度に手にしてみた。

異なる文化で、コーヒーブレイク

私がまず手にしたのは、本ではなくDVD『Babiesベイビーズ-いのちのちから-』 (2010年フランス映画)だ。

ナミビア、モンゴル、日本、アメリカの4か国の生まれた日からの一年間の人間の姿のドキュメンタリー映画である。ナレーションも音楽も一切なく、聞こえてくるのはその赤ちゃんが耳にしている音のみである。カメラの位置も赤ちゃんの目線と同じ高さであり同じ視野である。観ている私は、その赤ちゃんと同じ場で同じものを見て、同じ音を聞いている感覚になる。

日本の赤ちゃん、アメリカの赤ちゃんの姿は、当然受け入れやすかった。環境の違いやそこで起こる出来事も、想像の範囲内である。しかし、ナミビアの赤ちゃん、モンゴルの赤ちゃんの育ち方は衝撃的だ。4か国の子育て環境を、良いか悪いかで比較することは意味がないだろう。どの国の赤ちゃんも、両親の深い愛情を受け、そこにある環境の中で健やかに成長していく姿が見られる。そこにある文化に大きな違いがあり、その環境と赤ちゃんの関わりの違いに、私は衝撃を受けたのだ。

ナミビアとモンゴルの赤ちゃんの周りには、常に土があり、水があり、動物がいる。ナミビアでは、大人も裸に近く、赤ちゃんも裸でほとんど戸外にいる。母親に限らず大人や子どもに抱かれていたり、触られたりしている。生まれたての頃から、多くの他者との密接な関わりがある。規制される姿は見られない。大人(女性)たちの話し声や笑い声の中で、おむつもせずに、土や草の上を自由気ままにハイハイしている。時には石や何かの骨を舐めたり泥水さえ口にする。赤ちゃんの目は、常に何かを興味深く見ている。そして、積極的に自ら手を伸ばし関わっていく。他の赤ちゃんや、子ども、ハエや犬…。関わることで、何かしらを感じ自分の世界に取り込んでいるようだ。

モンゴルの赤ちゃんも、広大な自然の中で育っていく。両親は共に忙しく、関わりはあまり見られない。しかし、ちょっとやんちゃな兄や、鶏やヤギ、牛やネコなど、動物との触れ合いはとても多い。それらは、赤ちゃんだからといっても容赦なく関わってくる。決して心地よいことばかりではないが、赤ちゃんはそのありのままを受け止めている。赤ちゃんの心を動かす、自分以外のモノからの関りである。ストーブでやけどをしないよう、ひもでくくられてはいるが、大人の目が少ない中でトイレットペーパーをひっぱったり、噛んだりなど、自らの興味のままに関わっていく。とことん関わることで、トイレットペーパーというモノを自分なりに受け止めていっているようだ。

ナミビア、モンゴルの赤ちゃんが見ている色は、共通して「地球色」だ。土、木、草、水、空、風…の色。聞いている音も、牛やヤギの鳴き声、機械を通さない人と人との会話など、命から出てくる音である。そして、それらを体中で実感している。生まれて間もない頃から、まだ未発達と言われている五感の使いまくりだ。モンゴルの赤ちゃんは、産院から父親のバイクに4人乗りで家に帰る。布でしっかりと巻かれ、風・振動・母親の体温・父親の匂いを感じながら大草原を走り、これから生活するゲルへと向かうのだ。

ナミビア、モンゴルの赤ちゃんは、地球色を見ながら、自然の中で育って(・・・)いく。一方、文明的と捉えられる日本、アメリカの赤ちゃんの周りには自然と言えるものはあまりにも少ない。赤ちゃんが触れるもの、目にするものほとんどが人工物だ。高層住宅からわざわざ(・・・・)降りていかないと、他者との出会いはない。親たちは、わざわざ(・・・・)親子で遊ぶ会に参加し、子どものためにとわざわざ(・・・・)作られた絵本やおもちゃを与える。日本、アメリカの赤ちゃんは、「清潔・安全・管理」の中で育てられて(・・・・・)いる。文化によって、生まれてから二本の足で立ち上がり、一歩を踏み出すまでの「育ち方」には大きな違いがある。しかし、どの国の赤ちゃんも、とても誇らしげで喜びに満ち溢れている。これからの未来への第一歩だ。人間とは「二足歩行ができる」生き物である。人間として二足歩行ができるようになるまでの期間は、単に骨格や筋肉が発達するだけではなく、生まれた土地の文化を身に付けている期間であるとも言える。

人類学者と、コーヒーブレイク

『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克己著 亜紀書房)を読んだ。表紙一面にある長い書名から、人類学者は何を考えたのだろうかと興味をもった。この森の民とは、ボルネオ島の「プナン」で暮らしている人々のことである。アフリカや南米と比べれば、そう遠いという印象はないマレーシア。その地に今現在も、狩猟採集民族が、自分たちのスタイルを貫き通して生活している。

プナンの民は、近くにいる文明的な生活をしている人々と切り離れて生活している訳ではない。猟で手に入れた獲物を売って現金を手にするし、バイクや車も活用できるときは活用する(免許はないが、運転技術を身に付けている者がいる)。油ヤシプランテーション会社が、木材を伐採したり油ヤシを植栽したりするために仕事用に建てられた小屋を、遠慮なく活用している。そこに企業の人が来れば、イノシシ肉をあげることでチャラにする。文化人類学者が持っている時計を欲しがるが、彼らは時間を知る必要はなく、別の誰かが欲しがると惜しげもなくあげてしまう。物も、便利さも、快適さも所有し続けようとは考えない。あれば使う。無ければそのまま。持ち続けることが「より良く生きる」になるとは考えていないように思われる。

プナンの森の民はヒゲイノシシを獲る。そのヒゲイノシシは食糧となる植物を求めて移動する。だから森の民の住処も移動する。植物は動物に食べつくされる前に種子を作る。その種子は、小動物や鳥やミツバチが運んでくれることで、どこかで芽を出し新たな命に繋がる。そこには絶妙なバランスが保たれているようだ。互いに命を繋げていくためだけに利用し合い、誰もそれ以上は求めない。その連鎖の中に森の民が存在している。そこには、所有し続けなければならないものは何一つ必要ないのだ。

「死」に対しての哀しみすら手放していく。死者を埋葬すると、その場から離れるために住まいも遺品も破壊し燃やしてしまう。死者に戒名などの名前をつけないだけではなく、残された者の名前すらも変えてしまう。死者を思い出す手立てはまるで無くなってしまう。「死」の哀しみに留まることはなく、「食べて生きる」ことにのみに意識を向けていく。

人類は、狩猟採集民から農耕民へと進化をしてきた。『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福(上)』(ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 河出書房新社)を斜め読みした中に、「小麦がサピエンスを家畜化した」という言葉があった。たっぷりの収穫があれば贅沢ができるという所有欲が、そこに留まることやその地で労働すること、収穫物をそこに貯め込むことが必要になる。そのために長い労働時間に縛られ、人間が家畜化されたと捉えられる。しかし、農耕民となっていく過程で、種の蒔き時や収穫時を知るために暦が必要となり、記録するために文字や数量に関する知識や技能も必要となる。それを伝えていくためには教育も必要となるなど、多様な変化や発展が生まれてきたとも捉えられる。

ホモ・サピエンスが長い長い期間を経て農耕民と進化してきた一方で、プナンの森の民は、徹底して狩猟採集民であり続けている。文明的と言われる便利さを知らない訳ではない。子どもたちを学校に行かせるべきだという働きかけもある。お金があれば物が買えるということも十分知っている。それでありながら、互いを知り合える範囲の人たちだけで、プライバシーもなければ孤独もない生活を共にしている。その仲間ではすべてを均等に分け、欲しいと言われれば惜しみなく与えることを徳とする。個の所有はそこでは見られない。農耕民は常に奪われることに危惧しているが、狩猟採集民はそんな心配はまるでない。得たものは、均等に食べてしまえばよいのだ。あっぱれとしか言いようがない。

再びの思考

やりがいと責任をもって保育に携わっていた頃は、私は幼児を教育しているのだと自覚し、そのことに誠心誠意、努力していた。「生きる力を育てる」「子ども自らの力で育つための根っこを育てる」といったスローガンを掲げることに、何ら疑問もなかった。今回、コーヒー飲み飲み観たり読んだりしていく中で、その思いがなんだか怪しい気持ちになってきた。「子どもがより良く生きていく」とは、いったいどういうことなのか。私は、本当に子どもがより良く生きるための教育を行っていたのだろうか。子どもは教育しなければ育たないのだろうか。

「教育など必要ない」などとは決して思わない。しかし、プナンの森の民は、学校には行こうとしない。読み書きや計算は狩りでは使わないから、教える必要も身に付ける必要もないと言う。では、森で生きていくために必要なことだけを学んでいれば良いのだろうか。そんなことはないと私は思う。森以外のこと、自分が知らないことを知ることは、自分の今ある世界を広げていくことであり、今の自分を成長させていくということだと思う。自分自身を「より良く」していくことは「幸せに生きる」ことに繋がり、幸せに生きるためには、「学ぶ」ことはなくてはならないと思う。いや待て待て。そう考えるのは、狩猟採集民でもなく、農耕民でもない、ここに居る私の思考である。単純に、その生き方が良いとか、それは間違っているとは考えられなくなってしまった。

私には狩猟採集民と違って定着した住処はある。しかし、農耕民ほどこの土地に縛られている訳ではない。狩猟採集民のように何かを求めて、日本中を移動することも可能である。農耕民のように時計や暦、記録するための文字は必需品である。だが、それがなくても食べ物が得られない訳ではない。「食べるために生きる」という明確な目的をもつ狩猟採集民、「食べ物を貯蓄して困らないように働く」農耕民。そのどちらともいえない私は、「文明人」と呼んでもよいのだろうか。子孫となる子どもを産むこともしていない私は、「人間」として何のために生きているのだろうか。

私は、地球で生きている子どもたちすべてが、心地よく、健やかに、育っていってほしいと願っている。一人一人が、自分なりの幸福感をもって生きていってほしい。そのために、何を守り、何を創造し、何に努力していけばよいのだろうか。何を考えていけばよいのだろう。
まだまだ『知の巨人』からのメッセージやゴリからのフォローが必要である。今後も、ぐうたら村民大学に参加し、私はその学びを続けてみたい。

つづく