ぐうたらのひとしずく

私のものがたりをつくっています

杉原 亜美
【村民大学2019】汐見稔幸の人間学
【村民大楽2018】汐見稔幸の人間学4回シリーズ
投稿日:2020年7月10日

はじめて森の案内人ゴリさんと一緒に清里の森を歩いた日。 その日のテーマは「のんびり散歩しながら森や野から命を考える」だった。

森の入り口で、ゴリさんが目をキラッ!キラッ!させながら、参加者達にこ う尋ねた。 「今日、参加された理由は何ですか?」 (「・・・散歩ですけど!?」) 参加した理由??そんなこと考えてもいなかった…。(「えっ、私に聞かな いで〜」)心の中で私が焦っている。

「癒されに」隣の参加者が答えると、ゴリさんは「ん…」と停止し、言葉を 飲み込んだ。さっきまでキラキラとしていたはずのゴリさんの目が、一瞬にして曇ったように感じた。 (えっ?間違ってるの?それはゴリさんの求めている答えではないの?) とかく、私は人の顔色を伺ってしまう癖、よく言えば人に共感しようとする 癖がある。 森に、自然に癒しを求める人はおそらくいっぱいいるはずだ。結局、私を含 む参加者のほとんどが「癒されに」と答えたのだから。自然とは人々にとっ ておそらくそういう場で、安らぎを与えてくれる場であることは間違いないのだろう。

不正解ではない。ただ、ゴリさんはおそらくその単純な答えを想定した上で その問いを投げ掛け、相手の答えを否定することなく、自然の「癒し」以外 の側面を知る、感じるきっかけを演出していたのだと思う。私があの日「癒し」と答えた自然は、自然が見せる極一部にしか過ぎない…あれから3年。 ぐうたら村でのさまざまな出会い、学びを通して思考を行ったり来たり、葛藤させてきた現在はそう思う。

はじめまして、ぐうたら村

『ぐうたら村』…何とも不思議なネーミング。少なくとも、3年前の私は 『ぐうたら』と言われて、プラスイメージを抱く人間ではなかった。しかも、ぐうたら村の掟なるものは『人のぐうたらを邪魔しない!』なのだ。 はっきり言って、その掟が謎だった。

ぐうたらのワークと称される村づくりをしている最中でも、ワークをやりたい人はやっているし、ぐうたら〜と寝転んでいる人もいる。懸命な形相で虫を追い掛けている子どもに虫の名前を訊ねられれば、ワークの手を止め、図鑑をひろげる村の管理人、ゴリさんがいる。人の顔色を伺う癖のある私に とっては、心に緊張が走り、居心地の悪い空間。恐るべし!ぐうたら村なのだ。そんなドギマギしている私の横を髭の村長と呼ばれる汐見稔幸先生が通って行った。(「えっ??いつも高い壇上にいらっしゃる方だけど?」) ここまで来ると緊張度はMAX。ぐうたらどころではない…。そんな私の心持ちに気づいたわけではないだろうが、さりげなぁくもう一人の管理人、たかちゃんがぐうたら村で育てている野菜を紹介してくれる。そして、畑を指差し「身の丈」という言葉を口にした。「これ以上、育ててしまうと身の丈に合わなくなってしまうから」私は「…?どういうこと?こんなに広い土地が あるというのに?」と困惑した。

その日、ぐうたら村がぐうたらすることに背伸びをしている私の身の丈に 合っていないことは、自分なりに十分理解できた。自分らしくあることに慣 れていない、ギクシャクとした自分が認識できたからだろう。 ところが、ぐうたら村が目指す身の丈に合った暮らしとはどういうものなの だろうか?と『身の丈』いう言葉にグッと心惹かれてしまった。

そして、そもそもぐうたらするってどういうことなんだ?と疑問が生じた。 理由はよくわからない。ただ単純に心が動いてしまったのだ。目の前に見え る富士山に息を飲み、『ぐうたら村』にまた来たいぞ!と感じてしまった。

ぐうたら村民大楽2018『汐見稔幸の人間学』

2018年から、ぐうたら村のわくワークやカルチャー講座に加え、村民大楽が 開講された。ぐうたらというネーミングに続き、大学ではなく大楽と書かれた文字を見て、思わずほくそ笑む。 さらによく見ると、汐見稔幸の人間学2018:学び直しの講座とある。「学び直し?ならば私も間に合うのか?」と内心思ったり、「(人間を)大いに学ぶ、じゃなくて…(人間を)大いに楽しむ」ぐうたらを楽しめていない私が、学びを楽しめるか?なんて不安がったりしながらも勢いで申し込み、第1回目を迎えた。

あなたにとって人間とは?開始早々、投げかけられた問いだ。3枚の紙を渡され、私の考える人間を3つ書けという。参った…。人間についてなんて考えたこともなかった。考えようともせずに生きてきてしまったのだから。い や、人間を考えるなんてことからは、自主的に逃げてきたと言ったほうが良いのかもしれない。吉田拓郎の『♫人間なんてららら〜』という歌のフレー ズだけがリフレインする。

『謎』『欲』『嫌い』捻り出した答えがこの3つ。そもそも人間が嫌いだと 公言して生きてきてしまった私が、人間を学びに来てしまったのだが、ここまで人間に対するネガティブな答えしか出てこない自分にも驚いた。そして、自分の抱くイメージに悲観的になり、気持ちはどんどん滅入っていく。 汐見先生の講義の間も思考が停止する。自分の頭の中に取り入れられなかっ たり、咀嚼ができずに困惑したりする。いわゆる、消化不良状態。…思考することから逃げて生きてきたからなのだろうなと痛感する。思考することに慣れない。ましてや意見を求められても、己れの言葉で語れない。自分の思い、感情を表出することが怖い。ほとほと嫌になった。 これまでの私だったら、ここで逃げ出したと思う。正直に言うと、登校拒否状態だった。

でもこんな自分が嫌だからこそ、恐らくぐうたら村に引き寄せられた。初めて森を訪ねた理由を問われた当時も理由は明確ではなかったが。それ以上に 理由は明確に見当たらない。ただ、スピリチュアルな感覚だけで清里まで通い続けた。

人間は食べ続けられない

時は2019『人間学』村民大楽2年目に突入していた。もちろん自ら望んでの 2回目の受講。思考が整理できてもいないのに、学びを止めてはいけないような気がして、私はまた清里に居た。参加者達と昼食をとっていたときのこと。汐見先生が『あれも食べたい!これも食べたい!とあれこれつまみ喰いをしたとしても、人間は食べ続けることはできないでしょ?とお話しされている声が聞こえてく る。

ギクっとした。「え?私のことじゃん!」(見透かされてる?)と素直に受 け入れてしまえるくらい、私は「学び」にがっついてる。学びに、いや学ぼうとする気持ちに飢えていた私は、どれも必要な情報に思えて、取り入れようとしてしまう。あれもこれも食べたいという欲求ばかりが続く状態。

しかもあれもこれも学ぼうと、満腹中枢も働かなくなって、詰め込み続ける。何を食べているのか、味さえもわからなくなってきた頃、極めつけに汐見先生は「学びは自分自身を知るため」と仰った。すとんとその言葉が私の体に吸収され、すぅっと気持ちがラクになった。

「そうか、私は私という人間を理解したかったんだ」とそのとき初めて、ぐうたら村に通い続ける理由、私自身の内面的心情を見つけた。汐見先生にきっかけをいただいて、内なる想いを自分で認められたことが何よりも嬉し かった。

パンはパン

私はパンつくりが好きだ。パンを食べることが好きなわけではなく、パンつくりをしているその行程が好きだ。 パンは簡単に言ってしまえば、粉と水、そして発酵させる発酵種があればつくれる。ところが、この発酵がクセモノで、成長をしていく生きものなの だ。パンをつくるときの環境、たとえば気温や湿度、つくり手の手の温度… あらゆる条件がパンの風味をつくり出す。それが保育に似ている気がして、 真剣になれるし、夢中にもなれる。

パンにきく。「私は今、あなたにどう関わったら良いですか」「あなたは今、何が必要ですか」 まさに、自ら育っていこうとするものの邪魔をせず、ベストなタイミングで 関わりたいという思い。 発酵種が成長をしていく様子に一喜一憂する。むくむくと、まるでだいふく のように膨らんでいく様子に、よしよし!と思って生地に触ると…実は発酵 しているのは表面だけで、生地の中央付近はまだまだ発酵していなかったりする。 焼き上がりの見栄えにこだわって、パンを成形するときに生地を触りすぎた り、何度も成形をやり直したりすると、焼き色が悪くなったり、しょっぱい パンになったりする。 生地の発酵具合、パンの呼吸、そして天気の声を聴きながら行程を進めていき、パンの状態とタイミングがピタッと合致し、自分好みの美味しいと感じるパンに焼き上がったときは、思わず小さくガッツポーズをするくらいに嬉しい。 パンと子ども、パンつくりと保育を関連付けたような話をしながら、「だか ら子どもも関わる保育者によって変わると思うんだよねぇ〜」「環境、大切だよね〜」そんな話を人間学の参加者に、ちょっぴり得意げに話している私の前にゴリさんがやってきた。

「亜美さん…パンはパン(笑)」 (「はぁ??何ですって!?違うもん!!」)心の中で反骨心が生じても、 残念なことに跳ね返すだけの思考もボキャブラリーも持ち合わせていなかった…。(「むむむ」) その日の人間学は森を歩くことから始まっていた。ゴリさんは問う。「清里の森に生えている樹々と園庭に生えている木は何が違うの?」 (「そうだ…思い出した。今日、ゴリさんは森に生えている木も園庭の木も、木は木と言ってたわ。」)私が作り、美味しいと感じたパンも、スーパーで並ぶ袋詰めのパンも、そりゃ〜パンはパンだわ…。心の奥では自己解決なんかしていないことはわかっているけれど、自己解決したフリをし、 そっと引き出しにしまった。

私はパンつくりが好きと言いながら、つくり手である人間のことを、根底で好き嫌いの感情で見ていなかっただろうか。 私は人間を、自分都合にフィルターを通して見ているのだろうか?区別をしているのだろうか?そもそも、その根拠を考えずに語っているのだろうか? …そんな気がして、それから人間を考えるときに『パンはパン』という5文字 が頭を離れなくなった。

透明な存在になりたい

保育者はとかく『黒子で在れ』と言われるが、あるシンポジウムで佐伯胖先 生(認知心理学者)が保育者を『透明な存在』と仰っていたことがある。 そのとき私は、穏やかな光をイメージした。いくつものカラーが折り重なっ て放たれている温かい光。光を保育者、自分に置き換えると、のび太くんに 接するドラえもんのように、相手に合わせて色を変えたり、重ねたりでき る、引き出しを多く持った存在。

黒子のように子どもを引き立たせるために自らを消そうとするのではなく、 子どもの存在を認め、子どもが心地よく安心して過ごせるように相手の状況 や発達に合わせた穏やかな光となる。そんな様子がイメージできた。保育者自身が輝くのではない、光は放てど無色透明な謙虚な存在でありたい。そう思った。だとしたら、パンつくりに必要な知識もつくり手の環境も大事な光のひとつとは言えないだろうか?

ゴリさんが『発達159特集自然と子ども』のなかで、表層的に「こんな花だ」「この幼虫に食べられた」と認識して終わるのでは なく、その花やその様子を通して、様々なものへの認識を深めることです。 それは、別の言い方をすれば「まなざしを習得すると言い換えることができるかもしれません と述べていた。これが意味するのは、まさに穏やかな光で照らすことなのか もしれない。

パンはパン。人間は人間。分けて考えるのでもなく、表面的に判断するのでもなく…人間との関わりを通して人間の認識を深めていく。そもそもそれを 大前提に私の凝り固まった思考を柔軟にすることの必要性をゴリさんは投げかけてくれたのだろうか?ふぅ〜と、ため息をつく。思考が行ったり来たり する…。

ただひとつ言えるのは、森を歩く理由を表現できなかった3年前よりも、思考する面白さを感じているということだ。

私にとって

村民大楽「人間学」で印象的なことはいくつもある。 例えば、森に入って落ち葉を1枚拾い、その落ち葉が私の体に取り込まれる までのストーリーを考えること。森の中で倒れた大木を見て、木になったつもりで詩を書くこと…などなど。

しかしこれまでの人間学の講義の中で、汐見先生に「あなたにとって…?」 と質問を投げ掛けられたときほど、ドキッ!ヒヤッ!としたことはなかっ た。さまざまな思考が追いついていかない。「私にとって」という思考を閉 ざしてきたほうが生きやすかった。「私にとって」と思考することの大切さを知ろうともせずに生きてきた。

でも思い返せば、人間学の講義の中で汐見先生から明確な答えは示されなく ても、常に「私にとって」という問いを常に投げ掛けられていた。自然と自分に引き寄せて思考することの面白さを汐見先生から教えてもらった私は、 少しずつだけど変化していっている。当たり前だけど、学びは自分次第。学びは繋がっていることを知る度、学ぶことの面白さが増している。「まなざしを習得すること」は「私にとって」を思考することに通じるんだろう なぁ、とも感じている。

私は今、思考することや感情を抱くことの面白さや豊かさを知り、やっと人間になってきたような気がしているのだ。そして自然の風景に包まれながら、人間らしく生きてみたいという欲求が生じている。学ぶことは生きること。生きることは暮らすこと。身の丈に合った暮らしの豊かさについても、 まだまだずっと考え続けたいし、自分なりに出来ることから取り組みたいと思っている。

子どもが豊かな遊びで心が耕されていくように、私はぐうたら村での豊かな学びに心を耕してもらった。3年前、ぐうたらすることにドキドキしていた私が、こんなにぐうたら村に魅了されるなんて!!奥行きたっぷりな『ぐうたら村』だ。そんな「ぐうたら村の滴になれたら嬉しいね♫」なんて会話をぐうたら仲間としていたら、参加者が書くエッセイのページのタイトルが『ぐうたらのひとしずく』となっていた。偶然でもなんだか嬉しい。

「私にとって」学びは自分自身を知ること。深めること。まだまだ入り口、 始まったばかりだ。でもぐうたら村には『教育は自分探しを応援すること』 『一度しかない人生。夢を持て!』と言ってくださる汐見先生、そしてゴリさん、 仲間達がいてくださる。

「私にとって」… 今、なぜぐうたら村に通うのか?と尋ねられたら、迷わずこう答えると思 う。

「私が私であるために!」

みんなの ひとしずく