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守谷 靖
一般財団法人教育はSCIENCEかつART・代表理事
【村民大学2019】汐見稔幸の人間学
投稿日:2020年3月2日

唐突ですが、JR南武線のなかでこの稿を書いてます。
清里に珍しい「蔵」がある。蔵の主は、Mr.Shio。
この蔵には、錠前がない。入ろうと思えば誰でもいつでも自由に入れる。
蔵に保管するくらいだから、さぞや重要なものが…とドキドキしながら足を踏み入れる。
まず、第一感。「蔵の大きさが不明」。無尽蔵とはこのこと?
そして、第二感。「収蔵物は雑多で不規則に投げ込まれている印象」。エントロピー極大?
第三感。試みにそのなかの一品を取り上げてみると、「う~ん、興味深い」。次々と手に取るものは、みな珠玉の逸品のよう!
そうなのだ。つまり、この蔵にある一見雑多に見えるものは、ひとつひとつに深い意味のあるもの、かつ、意味づけられ整理された貴重なものだったのだ。
え? 誰にとって? それはもちろん、所有者であるMr.Shioにとって…。

Mr.Shioは、この貴重な収蔵品を惜しげもなくひとに分け与えている。なぜなら、蔵の中にあるのは無体物である知的財産。無体物であるからいくら持っていかれても決して減ることはない。むしろ、Mr.Shioは、「へぇー、こんなの持っていくのかぁー」ということの方に興味があるようすら思われる。

所有者にとってはひとつひとつが意味を持つものと言った。
それは、ここに来て、それらを持ち出そうと企てるものたちにも言えることだ。
どうも、「オレを持っていけ!」と言う声が聞こえるような気がするものを持ち出していく。「オレを持っていけ!」と聞こえるのは、まさに持ち出すものの持つセンス(sense)。

汐見先生が専門研究分野として「教育学」「保育学」「教育人間学」を標榜し始められたころ、「人間学」というtechnical termは「流行りことば」のひとつのように思えた。私は、ひとりひとりがちがう「にんげん」を研究対象とすることを前提としたとき、「人間学」という領域が果たして学問として成り立ちうるのかという疑問と興味を同時に持っていた。

それから30年余りを経て、先生は、今まで「あたりまえ」とされていた17世紀以来のタテ割りの学問領域の呪縛をバラし、学問といえばすべてがphilosophia(哲学)であった、古代ギリシャからの「にんげんの営み」と「知」の変遷を跡づけながら、中世以降、専門領域化・ミクロ化されてしまった人間研究をもういちど束ね直し、体系化されようとしている――新しい学問体系にrebuildされようとしている――のではないかと思えるようになってきた。

まあ、そんな小難しい話はこの際どうでもよくて、出入り自由のこの蔵には、同じようなにおいのする人たちが、あたかもアリが砂糖に群がるようにやって来て、「日常語」で「自由に」保育やにんげんを語っている。(それが、非日常の場面で行われていることが少しく皮肉っぽくはあるのだけれど…)
Mr.Shioの真のねらいは実にそこにあったと思わざるを得ない。
くだんの蔵には、「脳ミソの凝りをほぐし、ばかばかしいほど自由な、、、時にはありえないような話ができる仲間をつなげたい」「つながったらつながったものどうしで、どうぞご自由になんでもやって!」というチャンスとヒントを知らんぷりして仕込んであるやも知れない。

これは日本型教育の問題の核心を突く、重大な企てだ。
「従来型の教育」ではない、発明的な発想による「にんげんの学びの場」の創造。それを新しい理にかなった方法で具体的に実現させるチャンスとヒントが、清里の「蔵」にはある。

(文責は私ではありません。南武線のなかで何かが降りて来ました。悪しからず)

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