ぐうたらのひとしずく

今思う、保育のこと

村松 直人
関東学院六浦こども園
【村民大楽2018】汐見稔幸の人間学4回シリーズ
投稿日:2019年5月27日

子どもを理解するということ

「お家に持って帰って来ないでってママが言うんだもん。だから、ここ(園)に置いて帰る」作ることが好きで毎日のように作った作品も大好きなお母さんに見せることなく帰っていく。作る過程を知っている私は、ここのこだわりポイント!さすが!いいねいいね!と思うことばかり。「作ること/創ること」を体現しているかのように感じていた。こんなに素敵なのに何だか悲しいな。日々、子どもの傍らで保育という営みを行っていると、「大人はいつもそうだ!」と半ば批判的に自分も含めた世の大人たちの子どもたちへの言動に多少のいら立ちを覚える時がある。

そんな私も保育士を志し、大学に進学した。卒業後は実習やアルバイトでお世話になった大好きな保育園に就職をした。念願の保育の仕事に、子どもたちと過ごすこと職場の仲間たちと語り合うことの毎日が楽しくて仕方がなかったことを覚えている。

保育の仕事を始めて2年目。4歳児クラスの担任をしていた。こうた(仮名)は身体が小さく、目がくりくりしていてとても愛らしい人だ。だが、自分の思通りにならないことがあると友だちを叩く蹴る… その度に「こうた!なんで叩くのさ!」「蹴ったら痛いよ!」「(嫌なことがあったら)やめてって言うんだよ!!」と日々、強く彼に伝えている私がいた。(何で、手をだしちゃうんだろう?)(何で私のいうことが分かってもらえないんだろう)と考える日々。保育を送るうえで勝手にこうたを“困った子”にしていた。そんなある日、いつもと同じようなトラブルの中にいるこうた。他の保育者がかかわっていたので、私自身は特にトラブルの内容には知らずにいた。友だちとの話も終わったのか、こうたが私のところに来て言った。「『やめて』って言えたよ。」と。私はハッとした。こうたはちゃんと分かっていた。でも、できなかった。分かっていたけどできない自分にこうたは気付いていた。そんなことを知らないのは私だけ。毎日、毎回のように私はこうたに「お口で伝えようよ!」「叩かないでよ!」と時に強い口調で話していた。こうたのことを分かっていたつもりだった。正しいことを伝えているつもりだった。でも何も合っていなかったことに、恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいだった。

このとき初めて、大人(私)の正しさ、正義は子どもたちにとっては正義でないことがあるのかもしれない。子どもたちと共感的に関わっていくということはどういうことなのだろうという、思考の芽が芽生えた瞬間でもあった。

佐伯先生と大豆生田先生は「子どもを『人間としてみる』ということ」※1 の中の対談で佐伯先生のドーナッツ論に触れ、大豆生田先生は

「最近、佐伯先生が『子どものことを人間としてみる』ということを盛んに言っているんです。これって、僕も陥りがちだけども、『人間としてみる』っていうよりは、やっぱり、小さい子どもだから『いろんなことができない』とか、『何とかしてあげなきゃならない』存在として見がちです。また、『それは、自分でできるでしょ』という言うけれども、未熟な存在としてみていたり、できない存在としてみているから、もう少し、こうやってさせなきゃいけないんだ、っていうことにも陥りがちですよね。でも、その『一人の人間としてみる』ってなんだか言葉でいうと『そうよね』って何となく理解した気になりがちなんだけど、先生方がご自身のクラスのことを考えたときに『一人のひとりの子たちのことを、人間としてみていますか?』というふうに問われると、意外と難しいかなっていう気がしますよね。」

と話している。

また、上記の著書の中で高嶋先生はドーナッツ論、佐伯先生、大豆生田先生の対談にも触れて

「『ほんとうの“よさ”』とは、その人にとってTHEY的な世界(自分とは関係のない匿名性の高い不特定多数の他者によって構成されている世界)で共有されている既存の価値によって設定されるのではなく、その人の身に『なってみること(共感すること)』を通して二人称的に関わってくれる他者(他ならぬ特別な他者=YOU的な他者)との間、そしてその他者自身の中に生まれてる『対話』を通して見出されるものなのです。 中略
おそらく、子どもにとって求められるのは、すべての出来事を『情報』として正確に把握してくれる相手ではなく、たとえみえてないことやときがあっても、継続して自分のこと(そのとき自分が楽しんでいること、苦しんでいること、葛藤していること等)に心を寄せ、そっと自分の身に『なってみて』理解しようという姿勢で寄り添ってくれる相手のまなざしであり、かかわりなのではないでしょうか。」

と書かれています。当時の私は、こうたのこと、いや子どもたちのことを“未熟な存在” “大人が色々と教え伝えていかねばならない存在”として考えていたのかもしれない。こうた自身の身に「なってみて」理解しようという姿勢が明らかに欠けていた。しかし、そんな欠けていた私にこうたは自身の葛藤を言葉にして伝えてくれて、私に気づきのきっかけをくれたのだ。そんなこうたは、今年で高校生。どんな男性になっているのか。久しぶりに会えたなら、保育園時代のこと、聞いてみたいものだ。

小さな選択、大きな選択

子どもたちの傍らで過ごす毎日を10数年。たくさんの子どもたちと出会ってきた。共に暮らしていると、溢れ出る“安心感”“安定感”を持った子の存在を感じることがある。嫌なこと、上手くいかないことは誰にでもある。それに出会った時の振る舞い、姿、態度… 今の言葉でいう非認知能力みたいなもの。それはきっと側にいる大人たちの“愛情”なのだと感じるのだが、それ以上の言葉で表現できない私。どういうことなのかと自問していた。子どもたちから溢れ出る “安心感”“安定感”という エネルギー。

知人の女性は30歳前後。彼女は私の出会った子どもたちと同じような“安心感”“安定感”を持ち合わせている素敵な人だった。「きっと愛されて育ってきたんだね!」と冗談交じりに友人たちと話をしていたのを覚えている。そんな彼女が結婚をするということで結婚式に招かれた。太陽の光がたっぷり注ぐ結婚式の会場、穏やかで温かな時間が流れていた。私もお酒を片手にいい気分でいた。式も終盤。新婦から親御さんへの感謝の手紙の場面。新郎がマイクを傾けながら彼女は手紙を読んでいく、小さい時のこと、学生時代の部活のこと。最後のご両親へのメッセージの中で「お父さんお母さんはいつも私が決めたことを応援してくれました」とあった。きっと、進路や就職のことを彼女は話しているだろう。もちろん、進路や就職など人生の分岐点で決めたことを応援してもらえることは嬉しい事、大切なこと。でもそれだけなのだろうかと、どこか違和感があった。

大きな選択の陰にあるもの。それは、小さな選択なのかもしれない。きっと、幼いとき、「ジュース飲む?お茶にする?」「椅子で食べる?座って食べる?」などささやかな彼女の選択を受け止め、共感しながら暮らしていたのだろう。彼女の“安心感”“安定感”を育んだのは、大きな選択に繋がる、“小さな選択”を応援してもらった証なのかもしれない。

「子どもの成長に影響するのは、『愛情』よりも『安心感』だった」
現在ビジネス(20190223)※2 より信田さよ子氏は

「アタッチメントは『愛情』を表しているのではなく、危機的な場面を切り抜けるために必要な『安心感』を表していることが分かります。つまり、アタッチメントは『親から子どもに与えるもの』(愛情)ではなく、『子どもの側が親に求めるもの』(安心感)なのです。子どもの側の能動性が前提になっていることが重要です。この言葉は、しばしば親から子への愛情として誤解されますが、そうでないことを強調したいと思います。」

と綴っている。これは児童虐待の世代間連鎖の中での大切なことを記しているのだが、子どもの傍らにいる私たちにも示唆があるのではないか。大人からの愛情と言葉の中には、大人からの“良かれと思って”という一方的な愛情も含まれる。この一方的ではなく、小さな選択を支える、愛情。子どもに安心をもたらす愛情が大切なのかもしれない。安心をベースにした小さな選択を応援してもらった人が“安心感”“安定感”のある人なのかもしれないと感じるのだ。これらの連続性が、自分が自分としてあること、誰かと共にあること、自然、地球を愛すること、思考しチャレンジしていくことの土台となっていくと考える。

保育ってなんだろう?

保育って何だろう… 今回の人間学を通して、今の自分と重ねて考える。汐見先生の仰る「心の原点から問う」こと。つまりは自分のことを大切に思うことなのかもしれない。なんでも自分はできるんだ!と、いっちょ前に語る3歳の人。自分なりの仮説をもって環境と出会っていく4歳の人。やりたいことをやりたいように、自分で、仲間たちと葛藤しながらやりきる5歳の人。子どもたちは自らを生き、世界と肯定的に関わり、歩んでいる。でも、いつからだろう私は「自分なんて」「自分はこうあるものだろう」と肯定的に自らや世界を捉えられずに勝手に決めつけていた。自分の「もっとこれやりたい!」「本当はこうしたい」内側のメッセージは見て見ぬふり。いや、そのことすら気づいていないのかもしれない。

ゴリさんの語る「子どもは子どもを生きています」という言葉。日々の保育の中で子どもの内側の生きた言葉、メッセージを受け取ると心穏やかになる、ワクワクもしてくる。子どもたちの内側が見えれば見えるほどに、「自分はこういうこと好きかもしれない。」「幼いころにわくわくしたあの感覚」と、自分の内側も見えてくる気がする。また、自分の内側が見えてくると、子どもの内側もより鮮明に見えてくる気がする。

横浜市第1回教員研修会「子ども、自然、環境をつなぐまなざし」※3 の中でゴリさんは

「Serendipiti(英・造語)
=予想外のものを発見すること
=何か探しているものとは違った別の価値があるものを偶然みつけること
・観察の領域において偶然は構えのある心にしか恵まれない(パスツール)
・偶然性に開かれた身体
・偶察力、微候的知」

と話されている。つまり、本当の自分を知ることで、子ども(他者)を知ることができるのではないか。また、子どもを知ることで本当の自分を知ることにもなるのではないか。自分に共感的である人は、子どもにも共感的に関わることができる。そうした姿勢、ゴリさんのいう構え・偶然性に開かれた身体が子どもたちの生きる“偶然”を生み、価値のあるものへ誘ってくれるように感じる。「この人(保育者)の周りはいつも楽しいことが起きている」と私たちはしばしば語ることがあるが、それは、こうした構えが引き起こしているのではないか。

私の心の原点を問う=私(自分)の心を知る、つまり、それを受け止めること、応援することが自らを信じること、自信になる。自らを大切にできる人は他者も大切にできる。子どもたちの小さな選択を応援できることが、私自身の選択を応援することになる。私自身の小さな選択を応援できることが、子どもたちの小さな選択を応援することに繋がる。

子どもの傍らにいる私は、

「子どもへのまなざしを通して私を見る
私自身へのまなざしを通して子どもを見る」

そんなふうに大人も子どもも互いに育ち合い“安心感”“安定感”を持った暮らしは人、自然、地球、宇宙を大切にしていけるはず。
保育ってなんだろう?と難しいけれど、今の私はこう考える。

参考・引用文献
※1 佐伯胖 大豆生田啓友 渡辺秀則 三谷大紀 高嶋景子 汐見稔幸 (著)
子どもを「人間としてみる」ということ ミネルヴァ書房、2013年

※2 信田さよ子 「子どもの成長に影響するのは、『愛情』よりも『安心感』だった」
現在ビジネス 2019年2月23日

※3 小西貴士 横浜市第1回教員研修会「子ども、自然、環境をつなぐまなざし」
2019年5月15日