ぐうたらのひとしずく

人間の幸せとは?

傍島千百合
【村民大学2019】汐見稔幸の人間学
投稿日:2020年3月25日

人間学の1回目が始まる時に、コーディネーターのゴリさんから投げかけられた問いが、ずっと頭を巡っていた

今や、ネットで画面越しに繋がれる時代。今ここにこうして集い、共に学ぶことにどんな意味があるのか?

なぜだろう?なぜ自分はここにきたのか?

村長や案内人ゴリさんの話を聞きたいから?

貴ちゃんの笑顔や仲間たちに会いたいから?

深く語り合いたいから?

学びたいから?知りたいから?

豊かな自然の中に身を置きたいから?

とても便利な時代になった。オンラインで授業も会議も可能になった。今回の新型コロナウイルス感染症の流行によって世界が脅かされている中、それが随分役立っているだろう。通勤しなくても仕事ができたり、通学しなくても受講できたり、わざわざ会いに行かなくても、顔を見て話ができる。

人間学では、村長からの問いを胸に置きながら森を歩いたり、仲間と語り合ったりした。共に温かい食事を食べた。そして、じっくりと考え、また語り合った。

村長からの問いに明確な答えはない。

でも、森を歩き、相手と呼応するように語り合い、共に食卓を囲む中で、いつの間にか自分自身やこれまでの経験や人生とも対峙していた。そして、何かが浮き上がってくる。

今まで子どもに関わる様々な仕事に携わってきた中で、子どもや保育・教育について考えた時、必ず”人間の幸せとは何か?”という問いがセットで頭に浮かび、考えさせられてきた。

保育・教育は人間が幸せになるためにあると私が考えているからかもしれない。また、そう願っているからだろう。

今までの経験などから自分の中では、教育はもしかしたら“繋がること・ 繋がる力(かかわる力)”を培う意味があるのかもしれないと考えていた。人は“一人では 生きられない”とよく言うように、もちろん人と、それから、地域社会や環境と繋がりながら生きている。それらと繋がっていることや繋がりを深めたり広げたりすることが人間の幸福感と関係しているのではないかと思ったからだ。

地元にいた頃、母たちが運営する子ども食堂を自分も”お手伝い”という形で参加させてもらっていた。そこは、経済的な貧困というよりも「つながりの貧困」をテーマに運営しているが、そこでの様子を見ていると、訪れる人はもちろんのこと、ボランティアとして参加する人たちも誰かの役に立てることや役割があることの喜びに溢れ、互いが繋がり合う喜びを感じ合っているように感じた。集まる人は様々だ。子どもはもちろん、ホームレスの方も高齢者の方も、高校生や大学生のボランティアなど、あらゆる場所から。野原を駆け回ったり、野の花を摘んだり、畑を耕したり、種を蒔いたり、ニワトリを追いかけたり、虫を探したり、食事を作ったり、玩具で遊んだり、ピアノを弾いたり、漫画を読んだり、それぞれの好きな場所で好きなように過ごす。食事が出来上がったらみんなで食卓を囲む。自然と語り合い、お腹も心もいっぱいになる。そこには何の垣根もない。人間同士の付き合いだけだ。子ども食堂に参加することで、いつも自分自身が幸せをもらっているように感じていた。人々が寄り合い、一緒に畑仕事をしたり、食事を作ったり、食卓を囲み・語り合うこと、それこそが私たち人間に与えられた本当の幸せだと教えてもらっているような気持ちになったからかもしれない。

なんだか、「ぐうたら村」に少し似ているなぁと、ふと思った。

ある博物館を訪れ、改めて人類の歴史を表で見た時のこと。人類が火を使ったり、土器を作ったり、集落を作りながら生きてきた歴史を目で追いながら、今では当然になっているが、きっと一人で生きるよりもずっと素敵で心地良いことだと知ったから、人間は群れて協同しながら生きる道を選択してきたように思った。無論、心地良さだけではなかったから戦も起こったのだろうが。どんな時代も、おそらく人類は幸せを求め、便利さを追求し、文明を発展させてきた。しかし、それとは引き換えに、仲間と協同することや寄り合う機会・場所を失い、人と人との温かな「つながり」を失ってきている事実もあるだろう。

単に「つながる」だけなら、昨今はネットで世界中の人と繋がることができる。会話することも、顔を見ながら語り合うこともできる。

人間学の中で、”実際に会ったことはないネットで繋がった人が親友になり得るか?”という話題が挙がった。その関係性を否定する気は毛頭ない。しかしながら、きっとそれだけでは人間は真に満足できないように思う。

なぜなら、今こうして人間学を経て、今までの事柄が結びつき、また文字にすることで、確かに村長の言葉と繋がり、自分の中に見えてきた人間にとって大切だと思う3つのものがあるからだ。

〇人と繋がる(心を通わせる)

集い語らう・共に食卓を囲む・仲間がいると感じる体験・誰かの役に立つ・共に心を動かす…

〇身体を使って心を動かす(体感する)

森を散策する・畑仕事・食事作りなど仲間と協同して何かをする・自然の中に身を置いて心を解(ほど)く…

〇頭を使う(思考する)

考えたり学んだりして知識を繋げる・工夫しながら試行錯誤する・考えや思いを言葉にして相手に伝える・なぜだろうと意味などを深く考える…

これら3つが折り重なることで、人間は心から満たされ、真の幸せを感じるのではないかと。

そう考えると、ぐうたら村民大楽の人間学は”幸せ”そのものだ。

ああ、そうか。だから私はあの時間、大いに幸せを感じていて、またあの場所へ行きたいと思うのだろうと気づいた。

そして、これら3つは、今目の前の子どもたちが日々求め、目が輝く瞬間と同じだ。

子どもたちがいつも教えてくれていることだ。

また、これら3つは、5領域にも10の姿にも繋がっていて。やっぱり保育って人間が幸せになるためにあるのだと、当たり前のことを思い、嬉しくなった。

まず担当している0歳児クラスの子どもたちの姿が目に浮かぶ。

お気に入りの歌やわらべうたを”歌って”と仕草などで表現し、歌ってもらうと全身を使って万遍の笑みを浮かべながら身体を揺らしたり踊ったりして表現する。木々の隙間を縫うようにして探索したり、沈丁花の花を大胆にちぎって香りを嗅いだり、フキノトウを房ごとに分解したり。”自分で!”とズボンに片足を入れるだけを15分もの時間をかけて、じっくりと粘り強く試行錯誤し続け、大人を驚かす。そして、小さなままごとテーブルを囲んでお茶を飲むのが大好きな子どもたち。一人が飲んでいると、ぼくも!私も!とそれぞれ座布団や椅子にする台を自ら持ち寄って、ちょこんと座ると、「ああー」と見た目には似つかわしくない野太い声を出してお茶をすすり、見つめ合ってはケラケラと笑っている。ただ空間を共にしているだけで、心を通わせ、幸せで溢れている。散歩先でも、同じようにちょっとした段差を見つけると縁側に座るようにして、ひなたぼっこを共に楽しむ姿がなんとも微笑ましい。

そんな姿を目にしながら、ただただ愛おしく感じ、気づけば目を細めて私もたまらなく幸せな気持ちになっている。また、それら子どもたちの姿を保護者の方に共有する時、その幸せな気持ちがまた膨らむ。そうか、保育者として生きることも私にとっては”幸せ”そのものなのだろうなぁと気づき、疲れが癒えてくる。そして、今まで出会ってきた多くの子どもたちをはじめ、その家族、私の人生を支えてくれている大切な人たちに、感謝で胸がいっぱいになる。

改めて思い、願う。

誰もが“生まれてきて良かった”と感じられる幸せな世の中になってほしい。

世界の危機的状況だからこそ、不幸中の幸いとして、教育の意味や在り方・人間の幸せを問い直すチャンスに変えて未来に向かっていきたい。

ヒトとして生まれ、一度しかない人生を人間としてどう生きていくのか?

私はまだ人間学の門を潜ったばかりだ。

まだまだこれから。未熟だけど、きっとその分 希望だってある。

なぜ?どうして?と、問い続けたい。子どもたちのように楽しみ、面白がりながら。

 

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