即効性のあることは継続せずとの言葉があるように、保育の肝心な部分は目に見えません。また保育の結果はすぐには現れず、その成果が分かるのは成人後かわかりません。また、子どもは保育園の中だけで育つものではありません。大人になったとき、なにが良かったのか悪かったのかを確かめることは、容易なことでもありません。
そもそも、一人ひとり事情や背景、発達の異なるお子様に対して、同じことを一律に行うわけではなく、その時の状況や子どもの様子に応じて対応も変わります。
こう考えると、保育は一見とても漠然としており、保護者の方や第三者に伝えていくこと、保護者や地域の方と連携を求めていくことはとても難しいことのように思います。
一方、子どもが育つ環境・保護者の方が育った環境を考えてみても、かつては、多くの子どもたちが群れて遊び、それを村の人のように顔が分かる複数の大人たちに見守っているような共助の社会があちこちに見られましたが、現在、私が住む埼玉ではそのような姿は殆ど見かけることが少なくなりました。いつの頃からか、公園はデビューするものとなり、放課後になっても閑散としていますし、アスファルトの道路には子どもだけでなく大人が歩く姿すら珍しくなりました。
保護者の方自身がそのような町で育ち、幼少期の経験はゲームや塾・習い事などがほとんどで、虫や自然に触れることは少なくなり、自然は不潔で危険なものと考えている人もいます。少子化・核家族の中で、ある時には理不尽な年上の兄弟たちや手のかかる年下の姉妹に悩まされる経験も少なく、学校では年度別のクラスの中でほぼ同年代の子とのみ過ごし、危ないから○○に行ってはダメ、知らない人と関わったらダメだと注意され、子どもたちが集える空き地もなく規制とルールばかりの閑散とした公園で、異年齢の子ども同士の関わりもほとんどないままに大人になります。また、親になった後も周囲には子育てについて頼れる人もおらず、幼少期を通じて子どもを育てた経験も、自らが育った経験も乏しいまま、いきなり親としてスタートする方がいるように思えます。
この状況は、子どもにとっても保護者にとっても大変過酷です。免許を取った直後に自動車のキーを渡され「明日の夕方までに車で大阪に行きなさい」と放り出されるようなもので、途方に暮れるのも無理もないことだと思います。こうした中、異年齢児とのふれあいや子ども同士の関わりがふんだんにあるコミュニティとしての役目、保護者の方を専門家として支援する保育園の役割はかつてないほど大切だと実感します。
例えば、保護者の方には目に見える成果、それも短時間のうちに顕れるものを求める傾向があります。全員が整列し行進したり、ひらがなや英単語を覚えたり、大人の言う通りに動くことは分かりやすく「教育」が行き届いていると思う人も少なくありません。
かつては「子どものけんかに親が出る」と言うのは馬鹿馬鹿しいこととされてきましたが、最近では0歳児や1歳児の噛みつきに対して「噛みついた子」を責め、その親に謝罪させてほしいと訴えて来る方もいます。
子どもの育ちは逆説的なことがたくさんあって、一見良いと思うことは長い目で見ると悪い結果となったり、その逆もあります。親という漢字は「木の上に立って見ている姿」を顕していると聞きましたが、木の上に立って見るというのは、かなり遠くにいいるわけですから、すぐに子どものいるところに駆けつけることはできません。可愛い子には旅をさせよといいますが、木の上からでは信じて見守ることしかできません。子どもは信じて見守られる中で自ら育ちます。保育でも見届けることはとても大切だと感じます。けんかをする、物をなげる、落書きをする、子どもは大人から見れば行動を止めたくなるようなことをよくします。しかし、どんな行動にも理由があります。子どもの理由を考えず、結果だけを見て判断をすることで、子どもの育ちを妨げてしまう場合もあります。
けんかのあと、大笑いして一緒に遊び始めたり、物を投げることで水の波紋を確かめてみたり、落書きで色の変化を確かめていたり、見届けた後でしか見えてこない景色もたくさんあります。見届けることで、子どもの心が見えてくる感じを味わいます。以上のことから保育は、大人の私たちの人間力を試され、覚悟と根気が必要だと思うのです。
保育の質を上げることは、全ての保育園にとって大きな課題です。保育の質を上げるために園がするべきことはたくさんあります。
保育指針や発達や安全、子育ちの環境について学ぶことも大切です。しかし、何より大切なことはチームワークだと思います。どんなに良い理論があっても、本や理論が保育をするわけではなく、生身の保育者が中心となって行いますので皆が楽しくはつらつとした気持ちで保育に取り組めるよう、チームワークや風通しの良い環境を作ることも重要です。そのため、園の運営には子どもの発達の理解や環境構成といった子どもに直接かかわる部分も重要ですが、労務管理とかチームワークづくり、仕事の進め方のような職場づくりの勉強も大変重要だと思います。
子どもは好奇心の塊で何にでも興味を示します。風が吹くことや水が流れること、ブロックを積み上げたり並べたり、どんなことにも、興味津々です。大人の役目は好奇心を上手に引き出すきっかけ作りや、子どものアンテナをキャッチすること、時には一緒に膨らませること、将来の好奇心の種をまくことだと思います。そのことにより、大人が正解や効率の良いやり方を教えてしまうと逆に好奇心の芽を摘んでしまいます。
子どもの好奇心は、次の好奇心へと広がっていきます。春、土の中から幼虫を見つけた子どもたちは、どうしたら飼うことが出来るのか、調べ考え、他にも幼虫がいるかもしれないと探しに行きます。エサは何を食べるのか、どんな蝶になるのか、興味が尽きることはありません。
最近、園庭に保育者が作った1m80㎝の高さのやぐらを設置しました。遊び方も何も言わずただ置いておいたのですが、年長の子が柱にしがみつきよじ登りはじめ、何度も何度も挑戦するのですが、うまくいきません。そのうち、靴のままだと柱をよじ登る時に滑ってしまうことに気付いたある子が、裸足になって上ることを思いつき、苦心惨憺、とうとう一番上まで登り切りました。やぐらの上に立ったときの晴れやかな顔は眩しいくらいに輝いています。
その映像を見た父親は、家で見る姿と違うわが子の姿に涙を流していました。
また、そのやぐらに上りたくて、何度も挑戦していた女の子は悔しさを押し殺し、必ず卒園までに上ってみせると宣言し、毎日挑戦をし始めました。その話を聞いた母親は誰にやらされるでもなく、自ら目標をもって挑戦するようになるのかと、感動していました。
保育者の働きかけについて、基本は受けとめることだと思います。まず一旦、すべてを受け入れた後に、「何でそう思ったの?」等対話を重ねながら少しだけ、「こうしてみたら?」等、ヒントを伝え一緒に考えるという感じが楽しいように思います。子どもは受け入れてくれる大人かどうかを一瞬で見抜きます。何かを押し付けてくる大人に対しては強い拒否反応を示すか、諦めて抵抗を止めるかになるように思います。子どもに諦めさせて、大人に服従させることが保育の力だと勘違いしている保育者も残念ながらまだいると思います。
以前、大変荒れている子がいました。その子が通ると棚の上の物はすべて落とされ、壁に貼られた掲示物はすべてなくなり、テーブルの上を走り回り、周りの子に対してもすぐに手が出てしまう。そのため、叩かれた保護者の方から毎日クレームが来るような感じでした。保育者もほとほと手を焼き、対応を協議しても意見は二分されました。そのような態度には厳しく注意すべきであるという考えと厳しくするのは逆効果で何の解決にもならないという考えがぶつかりました。私は物事には全て理由や原因があるはずで、その子はそんなに荒れるのかということを臨床心理の専門の先生の知見も借りながら、考えていきました。そして、荒れた時は鎮まるまで静かに見届ける、刺激が少ないクールダウンできる場所を用意する、言葉ではなく絵や写真を使い意思を伝えていく、決して否定的な言葉は使わない等を決め、全員で取り組むことにしました。保護者の方とも何度も話し合い、発達支援の教室に通う等、保護者の方も前向きに取り組む体制が整いました。1年後、保育者が大変紅潮しながら報告に来ました。「T君が壁のポスターに目がいき、破こうと手が伸びたんですが、手をかけたところで止まり、うーッとうなってやっぱりしちゃいけないと手を引っ込めたんです。」と今まで大変苦労をしてきたわけですが、報われた気になったというのです。T君はその後も荒れる時もありましたが、以前ほどではなく荒れる時間も短くなりました。そして卒園式を迎えた時、T君は卒園したくないと号泣しました。彼はとても自分の気持ちに正直なまっすぐな子だったのだと思います。その姿に今までの試行錯誤の日々が吹っ飛び、思わずこちらも自然に涙が流れていました。こういう瞬間があるから、保育は素晴らしい。試行錯誤の日々ではありますが、ジュワーッと余韻の残る嬉しい気持ちになれる仕事だと思います。
子どもは環境が変わると大人の想定外な、思いもよらぬ姿を映し出します。またその環境を保育者自らが作ることで、子どもの様子をよく観察するようになり、次の環境に活きていくという循環が生まれます。
壁にかける一枚の絵やテーブルの上の一輪の花が、子どもの情緒に働きかけ、穏やかな空間をつくり出してくれたりもします。保育の面白さというのは、このように、ちょっとした変化や心配りが予想もしなかった大きな広がりをみせることがあることです。どのような変化が起きるかは開けてみてからのお楽しみ、わくわくすることは確かです。
「生きるって何だろう」
生きるというのは何か他に目的があるというより、生きていること自身が目的なのではないかと思います。子どもを見ていて思うのは、子どもは必要なことをするということです。それが出来ないときは、それをするために様々な工夫をします。大人が子どもの行為を制止してしまうのは、子どもの行為の意図や目的が見えていないからではないかと思います。
例えば、高いところからジャンプをしたがるのは骨に一定の刺激を与えることで骨細胞の発達が活発になったり、物を投げるのは口に食べ物を運ぶための筋肉を鍛えるという効果もあるそうです。乳幼児が砂をなめたり何でも口に物を入れるのは雑菌を取り込むことで、腸内細菌フローラが整うこともあるそうです。少し大きくなると、物を取り合ったり、噛みついたり、引っ掻いたりする行為、これらも発達の中でよく見られますが、育ちの意味があるし何かのサインなのだと思います。また、モンテッソーリの敏感期のように特定の行為に夢中になる時期は確かにあります。イタリアの子だけでなく日本の子にも同じように敏感期があるということは、人類のDNA の中に組み込まれているのではないかとすら思ってしまいます。こう考えると、保育者は子どもの一つ一つの行為を、生命から発している行為として、深く理解することが必要だと思います。
子どもを育てることにどういう意味があるのか、どうせ死んでしまうのになぜ生きているのか、未来のために現在を犠牲にする生き方をしていると、この問いに答えることが出きなくなると思います。
幼少期の子どもたちの特徴の一つは、未来のためではなく、今この瞬間に生きていることです。大人が将来困るからと、幼少期の内に何かの訓練や準備をしておこうと思うのは、子どもにとっては大きな迷惑だと思います。それに引き換え、大人は何と不自由な生き方を強いられているのでしょうか。何年、何十年の未来のために、現在を使っている。老後のために若いころから年金の心配をしたり、いつ来るかもしれない死に備えて、例えば毎月生命保険料を払ったりもします。いつを未来と定義しているのか、その未来に備えて今を我慢することがいかに多いかと思います。幼少期は過去も未来もない、今この瞬間に生きていける季節です。将来の心配は大人になってからいくらでも出来ます。
私たちはかけがえのない今この瞬間に生きている命を預からせていただいています。子どもたちは大人のように未来のために今を犠牲にはしません。1秒前の世界はなく一秒後の世界もない。本来この瞬間にしか私たちは生きていないのかもしれません。子どもたちはそのことを私たちに教えてくれているのだと思います。